ホノルルのコンドミニアムが集中する各地域の歴史

ホノルルにあるコンドミニアムの各地域の歴史には、単なる舗装や鉄骨梁等の話のみでは留まりません。以下ご覧いただけますように、そこにはホノルルを居住地として選んだ人々やその土地の奥深い歴史が息づいています。

当ブログ記事では、目覚ましい発展を遂げたコンドミニアムが立ち並ぶ4つの地域、カカアコとダイヤモンドヘッド沿いのゴールドコースト、ワイキキ、アラモアナの歴史を紐解いてみました。これらを読むことにより、ある地域はエリートがステータスや領土を保持し続けた場所だったり、ある地域に関しては昔の島の住民にとっては今の姿が笑えるほど信じられないと思う程現在発展を遂げたりしたことがわかるでしょう。

カカアコ

新生カカアコは、誰もが認める21世紀の革新と都市計画の賜物であると共に、その土地のルーツに立ち戻ったとも言えます。ホノルルのこの一帯は、工業や商業が営まれる場所として知られていましたが、実はそれも結構最近の歴史です。

現在とても忙しい交通量のある道路には、過去を遡ると塩田と養魚池があり、そこに住んでいたハワイ先住民の食生活を支えていました。海がすぐ近くにあることもあり、漁民を引き付けていました。

1810年にハワイ王国を建国し、初代国王となったカメハメハ1世がここに住居を構えたと共に、港を作ったことにより始めはアメリカ人やヨーロッパ人、中国人を、後には特に日本人をはじめとした様々な人種を呼び込んだこともあり、カカアコの一帯は成長を重ね多様化しました。

19世紀中盤においては、最初の倉庫が構えられ、カカアコの一帯やその他ホノルルの地域を賄うようになりビジネスが躍進しました。この頃も住宅地がありましたが、小さな一軒家や借家が中心でした。

1850年代から100年程、ブルーカラーが、また、貧困層も住みつくようになり最貧の区域がいくつかありました。この地域の住宅の費用が安価で魅力的だったと同時に近辺の港やダウンタウンは職を供給していました。この一帯には、思いやり、しっかりとした結びつきや近所付き合いのある働き者の人々と法を守らないような人々とが混在していました。

1940年代には住宅の供給が衰退し、民間企業が増え続けたため商業地区へと変更されたと共に産業問題や倉庫が増えたため、1970年代の中盤には限られた家のみが残りました。

カカアコ再生の発動

1976年にハワイ州議会は、消え失せそうなカカアコの住宅地の管轄を市から取り上げ、ハワイ開発政府機関「ハワイ・コミュニティ・ディベロップメ ント・オーソリティー(HCDA)」を発足しました。そのミッションは、カカアコの発展と再開発を管轄することです。ご周知のとおり直ぐには実現されませんでした。

それから30年後にハワードヒューズ社によるワードビレッジ、カメハメハスクールによるアウアカカアコ(Our Kakaako)によりようやく実現されるようになり、今も尚開発が進んでいます。

ホノルルの不動産の歴史の中でもこの一帯の再興は、想像を超えた今迄にない魅力的な界隈へと一転させています。人と自然に優しい公園や遊歩道、オーシャンビューを保ちつつ、活気に満ちた都会レベルのショッピングやダイニングも堪能できる未来志向の生活を目指した計画的なビジョンが実現化されています。

当初計画されていた20以上のコンドミニアムの一部は現在建設中、アナハワイエアコレクションなどいくつかに関しては既に完成しました。これらは、ハワイに今までにない高級且つ最先端で革新的なコンドミニアムの代表です。

ハワイの環境を阻害することなく建てられた魅了的で創造的な建築物、それらのすぐそばには豊富なレジャーの選択肢や開放的な大通りや緑のスペース、都会的な雰囲気もあり、新鮮さを感じられるかなり特別感がある一帯です。未来にようこそ。

ダイヤモンドヘッド地区のゴールドコースト

ダイヤモンドヘッドの麓のゴールドコーストの一帯は、あらゆるエリートのための場所であり続けています。現在ラピエトラという女子校がある土地と建物は、かつて権力があったディリングハム家の別荘でしたが、その前は崇拝されたヘイア(古代のハワイ人が建設した聖域)でした。そこではオアフの王族やカメハメハ1世が、神に奉納したり極めて重要な権力を行使したりしました。

キャッスル家もゴールドコーストの海の目の前、正確には一部が海の上にかかるような建物を構えました。ベランダからは、魚を釣ることもでき、釣り糸を遠くへ投げ込む必要がありませんでした。

その後、似たような経験ができそうな格別なライフスタイルを満喫することができるかの有名なゴールドコーストのコンドミニアム群が建てられました。後に法律で海の目の前にコンドミニアムを建てることが制限されました。

ゴールドコーストの海岸線の一部の土地は20世紀中盤まで残っていましたが、ゴールドコースト上の一部の邸宅と共に、ダイヤモンドヘッドロードの延長線上にあるカハラ側のカハラ通りとキエレ通りの間の飛び地を、富豪で権力を持った者が所有するようになりました。

これらの邸宅の1つ1つは小さめですが、建築的には意味深く、ハワイの有名建築家により1920年代から40年代にかけていくつかの興味をそそるスタイルで建設されました。

類を見ないホノルルのコンドミニアム

1950年代から規制が緩かった1960年代前半までに、ゴールドコーストのコンドミニアムが建設され、オーシャンフロントの土地をほぼ占領しました。これらは正に「オーシャンフロント」の特別な物件となりました。

新たな法律が執行されるまでは、海の目の前にコンドミニアムを建てることができましたが、以降はもう2度と建てることができなくなってしまいました。ここでは既得権条項を適用することはできなく、もしコンドミニアムを取り壊した場合、より厳しい建築のガイドラインに従う必要があります。

ベランダからは足元にも届きそうな波の音が聞こえる格別な時間を過ごせ、強い波が来た時には潮のスプレーを感じることもあり、ゴールドコーストのコンドミニアム物件が売りに出ると買主が競い合うこともあります。ハワイの物件所有者の中でも多様な観点で特別な経験をすることができます。

50年以上前からほんの少数の建物しか増えず、このゴールドコーストの一帯はホノルルのエレガントな時代からそのままの良さが残っています。かつてそうだったように今よりもスローペースな時間を過ごしながら生活することの良さを思い出させてくれます。

ワイキキ

トロピカルなパラダイスの印象が強い現在のワイキキは、昔は今とは全く異なる沼沢地でした。ハワイ先住民はこの地を農業を営むためにフル活用し、1400年代には灌漑システムを導入しました。

その先進的なシステムの導入によりタロイモ栽培が盛んになり、また養魚池を設けたことにより体に必要な更なる栄養元を提供しました。ワイキキは、地域にとって最も欠かすことができない、熱帯地方版の食のバスケットを産み出す地となりました。

カメハメハ1世が各島を統一したことは、ワイキキの未来に影響を与えた重要な転換点となりました。カメハメハ1世は統率するストレスを解放するための場所を求め彼の多くの時間をオアフ島で過ごしましたが、一番頻繁に通ったのがワイキキの海岸線でした。

カメハメハの後継者は彼の指導力を継ぎ、ついには海沿いに大きな邸宅を建て永住しました。カラカウア王とカイウラニ王女、リリウオカラニ女王は、ここが彼らの地であり邸宅のオーナーであるということを誇示しました。

カラカウア通りの東側にあるカピオラニ公園は昔は競馬場だったため、ワイキキは上層階級の社交場やレクリエーション活動の中心地となりました。単に静養したりプライバシーを守りながら騒々しいパーティーを催すための土地ではなく、ハワイの行楽地となりました。

ワイキキの成長・進化が続く中、タロイモ畑と養魚池の一部は田んぼになりましたがそれ以外はそのまま残りました。1920年代を迎えるまで畑は山側まで広がりました。

1920年代に入ってからは観光業が主要となり経済発展が進み、ホテルの建設やアトラクション施設の建設が必要となりました。

見張るような世界的にも有名なリゾート地の発展

アラワイ運河を作り沼沢地を底堅い土地に変貌させたことにより上記建設需要の問題を解決しました。その土地は、即行区画分け後売却され、今のモダンなワイキキが誕生しました。

それからの30年程は、一軒家や商業で土地が埋め尽くされました。当時観光客は船に乗ってワイキキまで来ていたこともあり観光客の数も限られていたため、5階建てまでの建設制限よりも高くする必要性はありませんでした

その後、飛行機の時代が到来すると人口と観光客の数が圧倒的に増えました。そのため、ワイキキ住民の住居や観光客の宿泊場所をそれまで以上に供給するには建物を高くするしか解決策はなかったため、今のように高層のワイキキのコンドミニアムが建設されるようになりました。

海側の殆どはホテルや観光客のスポットが土地を占めるようになったため、住宅街はクヒオ通りとアラワイ通りの間の山側に建つようになりました。

一度繁盛したこの地域は1960年代には、所有者が物件を持ち続ける上で金銭やモチベーションが不足していたり、放棄されたりしたため、一帯が下降し始めました。一部のエリアではそこで行われている何らかの理由で避けて通る必要があるほどでした。

ワイキキのコンドミニアム建設による解決

その後政府は、荒廃状態のエリアや住宅供給不足の両問題を解決する機会を見つけました。問題が発生したエリアは使用禁止となり、高層コンドミニアムを建設する上で必要なクレーンを配置するスペースを確保しました。

1970年代後半には、ジャングル状態だった区域もなくなり、代わりに高層住宅街に打って変わりました。一帯は生まれ変わり、コンドミニアムでの生活がワイキキのスタンダードとなりました。一部の人の間ではしっかりと結びつきのあった古き良き一帯と一軒家がなくなってしまったことを惜しみましたが、この変化は増え続ける需要に追いつくためには不可欠でした。

今でもこれまで同様の高層化の計画は続いており、新たにトランプホテルリッツカールトンのような今までにない高級なコンドミニアムが建設されるようになり、キングスビレッジの跡地にもホテルコンドが建設される予定となっています。

ワイキキのコンドミニアムは、よりハイレベルな生活を実現できる新たな時代に突入しています。ワイキキ全体が超高級な地域になるまでにはかなりの変遷を要しますが、この地域はこれまでと同様に今後も高層の建物が価値を持ち続けるでしょう。

アラモアナ

20世紀の前までアラモアナ一帯は、ワイキキの山側の沼沢地の一部でした。この地域の海岸線は海側のアラモアナ通り近辺にありました。海岸線からキング通り辺りまでの内陸部は主に湿原でした。

従ってこの一帯もタロイモ畑と養魚池として活用され、ハワイ先住民の食を支えてきました。1930年代までは以上の目的で使われていましたが、アラワイ運河のプロジェクトと同じ頃にそのプロジェクト以上に壮大な変容を遂げることになりました。

アウトドアサークルのような地元の市民と弁護グループは、ホノルルにはさらなる公園の必要性を主張しました。観光業により成長し続けるワイキキの近郊ということもあり、このようなプロジェクトの第一候補地となりました。

幸運にも、だいぶ前に起こった大恐慌対策の一環である米国政府の公共事業計画により、労働力と資金の殆どが支給されました。アラワイ運河のプロジェクトがほぼ終わりに近づいていたこともあり、労働者はそのまま近距離の西に移動し仕事にありつきました。

最終的には、ケワロ流域の浚渫によりこの一帯の海岸線が外側に追いやられました。このプロジェクトによりアラワイの水が海に流れ込むようになったり、ボートハーバーができたり、海岸線は元々の場所から183~274メートル海側になったり、アラモアナビーチとラグーンもでき、更には、0.3平方キロメートル(東京ドーム6個分)の昔からあった礁も守られた緑あふれる公園も誕生しました。

活気がなく沼地で覆われた景色は消え去り、活気にあふれた繁盛したコミュニティーが形成される大きな手助けとなりました。更なる巨大なプロジェクトにより沼地を干拓したことによりアラモアナの山側の一帯は、小規模の一軒家が立ち並ぶようになりました。

2番目のパズルのピースにより今のアラモアナが完成

アラモアナ公園前の道路の向かいにあった湿地帯は、1957年に浚渫のために戻ってきたチームにより干拓されたことは、誰も予想していなかった震撼する程のインパクトを与えました。

アラモアナセンターが1959年にオープンし、その影響は計り知れません。ダウンタウンが町の小売業が集まる中心街という地位を確立していましたが、アラモアナセンターの出現によりその地位は終焉を迎えました。それだけでなく、ホノルルのこのアラモアナ地区は、経済力や雇用を生むようになっただけでなく、人々が押し寄せるような地域となりました。

1960年代前半から住宅の開発が進み、アラモアナセンターを取り囲むようにアラモアナのコンドミニアムが数十年にわたり建築されました。その中でも有名なのは、アラモアナとワイキキのボーダーに佇むオーシャンビューが見事な40階建てのヨットハーバータワー(1973年築)、30年経った今でも魅力的な日本のバブル時代に建てられた高級コンドミニアムのウラクタワー(1989年築)です。20年間ほどを通して、ミレニアム世代(アメリカで1980年代から2000年代初頭に生まれた10代、20代の若者の総称)はビルが次々と建設され、スペースがなくなるにつれ建設が減っていった遷移を見てきました。

そしてまた、近年になって再び建築ブームが始まりました。アラモアナセンターに直結するコンドミニアムの出現により新たな次元のライフスタイルが提供されるようになりました。まず初めの高級コンドミニアム、ワンアラモアナがアラモアナセンターの山側に、更に超富裕層をターゲットとしたパークレーンがアラモアナセンターの海側に建設されました。これらコンドミニアムの豪華なアメニティ、海や公園を幅広く見渡せる景色は、プロジェクトが発表された時の歓迎を完全に喜びに変えました。

ホノルルのコンドミニアム

ホノルルのコンドミニアムが多く存在する各地域の歴史は興味深く、島の過去を物語っています。特に過去100年にわたり爆発的に増えた変化を伴う各種イベントには目を見張るものがあります。今でも各地域は、過去同様それぞれの地域特性に応じた独自性を持っています。

物件を購入する上で地域の特性を把握するのはとても重要なため、ハワイで物件探しをする際には考慮すると良いでしょう。そして、もしここがマッチすると感じたのであれば、その地域がご自身に合った場所でしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です