ホノルルの古い歴史ある建物はこれまで厳しい道のりを超えてきました。厳しい天候、シロアリの大群、そして最後の半世紀は耐震普及の発展などを乗り越えて今に至ります。
幸いなことに、注目すべき住宅のかなりの数はまだその姿を残しています。建築や歴史的な個性を目にみることができます。ホノルルの一部の地域ではこのような歴史的な住宅が多く存在し特別なコミュニティをつくっています。ここではそれぞれの住宅と共にその奥深い歴史についてご紹介します。
ここでは歴史的な住宅だけではなく、ホノルルでもよく知られているすべての住宅地をならべてみました。古き良きハワイへのより良い理解が深まることでしょう。
歴史的建物登録とは
ハワイにて歴史的建築物の登録は、ハワイ州土地資源省の国家歴史保存課によって監督されています。四半期に一度ノミネートされた対象建物ー住宅だけでなく政府の建物、ハワイ先住民の建物、または1933年につくられたアウトリガーカヌー「マリア」なども含むーを審査委員会が検討します。
審査対象となる物は下記の要因のうちの少なくとも一つを満たしていなければいけません。
A)州、地域、そして国の歴史の中で重要な関連があること。
B)歴史的重要人物との関連があること。
C)建築スタイルまたは重要な建築家によって建築された良い手本になる建造物であること、または仕事の良い例。
D)歴史や先史時代についての情報が得られる状態であること(これは遺跡となることがある)。
歴史的な住宅は自然のままの状態で、歴史的な家を維持しなければならないと考える人は多いけれども、実際は「平均的」な状態で維持すれば良いとされていますー固定資産税の利点を主張する場合にのみ。固定資産税の利点は、歴史的建造物として指定されている建造物価値の50%、または歴史的に指定されている部分の一部、が免除対象となります。
住宅や建物を変更することも可能ではありますが、その変更事項は州立歴史財産部によって検討されます。建物に手を加えることは可能ですが制限があるため、「何もしないこと」が堅実であるとされます。
このようなプロセスについてご興味がある場合は下記のリンクから情報を得ることができます。
http://historichawaii.org/resource-center-2/register-guide/
このプログラムを通じて、ハワイは歴史と重要な文化を保護することができると同時に、私たちがどのようにこの豊かで多様な土地へたどり着いたかを理解することができます。
ホノルルの歴史的な地区
パシフィックハイツ
パシフィック・ハイツの歴史の始まりは不安定なものでした。1899年チャールズデイスケイの発案で、ダウンタウンホノルルの上に販売していた土地からの眺めをより良くし販売を向上するため、丘の中腹に電気鉄道を構築しました。これはある程度の魅力はあったものの、最終的に彼は1901年に差し押さえられる前に多くの土地を売らざるを得なくなりました。
1921年にプロジェクトを再開するまでは、自動車の登場と流行によりここへのアクセスが比較的簡単になり、住民は下からの行き来がしやすくなりました。ホノルルの裕福な住民の多くは大規模で豪華な家を構築し、ここを住むようになりました。
1920年代と30年代に建築された建物が今もまだ残っており、それらの多くはヨーロッパ建築様式の素晴らしいデザインです。これらは当時個性的なテイストをもち、またその建築を実現できる人々が存在したということです。
最初の数十年の住民はとりわけハワイで最も裕福な人々だったと言われています。スターブリテンの発行者や地元の著名な政治家などです。彼らの住居はすべて今でも残っています。
ヨーロピアンスタイルの優れた建築例は豪華な山の家としても知られるキャッスル&クックの家に見ることができます。 1928年からのスイスのシャレースタイルのこの家は、暑いシーズンに彼らの避暑地として使われてきました。このような著名な人々の住宅の存在は、パシフィックハイツを島社会の中で際立たせる大きな魅力の一つとなりました。
同じ年には大規模な砲塔と広々としたラナイに囲まれた印象的な後期ビクトリア朝のアン女王の建物がありました。これは丘の中腹に建てられた最初の建築物で、最初のオーナーは20世紀半ばごろまで、王朝時代にハワイの政治で高い位置にいたジャッド家でした。
1931年のスターブリテンはその頃のホノルル全体の意見を司る存在で影響力も大きいものでした。従って記者はこの高級な地区に彼のスペイン式ミッションリバイバルハウスを構築する能力を持っていたのです。 3275パシフィックハイツロードにある、ライリー・アレンレジデンスとして知られている建物のその輝かしい白い壁にはその建物への情熱を感じることができます。
パシフィックハイツにはまだまだ隠れた素晴らしい住宅があり、よりここを高級住宅地としています。 1900年代初頭のホノルルの社会の建築に興味がある方は、ここは探検するのに不可欠な場所です。
ヌウアヌ、パリ&ドーセット
ヌウアヌ・パリ- ドーセットの近隣はホノルル不動産業界で長い間貴重な存在として知られてきました。クイーンエマのサマーパレスの存在は、最高のハワイの王族とその貴族階級の歴史とともにここを特別な場所としています。
ホノルルの有力者たちはダウンタウンにも近いこの場所へ移り住み、涼しい気候と深い緑の美しさを楽しんでいました。この歴史ある住宅はその建物だけでなくここに住んでいた住人たちも重要だったとことは間違いありません。
例えば20オールド・パリの住居は1900年から非常によく手入れされたカマアイナホームです。ここはかつてハワイの皇族でカメハメハ大王の最高顧問であった ルーシーK.ピーボディとエドガー&ルーシーエンリケの住居でした。
ハワイの民主党の創設者であり、ハワイ最高裁判所長官のジェームス・コークは1934年、CWディッキーにコロニアルリヴァイヴァルの住宅ー3649ヌウアヌパリドライブーを設計させました。
さらに印象的な建築物は、1903年から1907年までハワイ州知事を努めたリヒアヴァイカーターによって建てられたスペイン植民地建築物(51ケポラプレイス)です。ここは1920年ハワイに建てられたプライベートレジデンスの中でも大きなものの一つで、26部屋の客室があります。今でもその輝きは健在です。
カーター知事は、彼の住宅の周りに10エーカーの土地を所持していました。当時ここは集団の住宅地というより、一つの特別な住宅エリアだったと言えます。いくつかはまだその形態のまま残っており、土地は細分化され当時に比べ小さい土地にまだいくつかの大邸宅は残っています。この変化は人口が急増した1960年におこりました。
これら3つのコミュニティ、ヌウアヌ・パリ-ドウセットを通じて、20世紀初頭あるいは場所によっては19世紀後半のハワイ社会の最上部の様子がわかります。当時は権力と富が少数の人々に集中し、それらの人々の所有する建築物によく表れています。
ブラックポイント
ブラックポイントは1930年代にドリス・デュークのシャングリラ建築を発端に不動産業界の金鉱として知られるようになりました。10年以上前に建設されたいくつかの住宅は小さなバンガローの家で、いくつかは1世紀以上たった今でも残っています。
素晴らしく魅力的な場所にもかかわらず、ダウンタウンからは遠く、人里離れた場所でした。しかし前述のデュークの素晴らしい建物をきっかけにこの場所の価値は上がり、裕福な買い手へ門を開けることとなりました。
一つは彼の親友デューク・カハナモクの住宅ー114ロイヤルサークルーで、これはシャングリ・ラが完了したのと同じ頃1937年に建てられました。今日でもこの家は健在ですが、2002年に広範囲に渡り改造されたため当時の建物と全く同じではありません。
1930年代に世に知られてから、ハワイ及び世界中の多くの著名人がこの超高級住宅地に住むようになりました。トム・セレック、キャロル・バーネット、ジム・ネイバースなどの有名人や、エキゾチックミュージックの父として知られるマーティン・デニーなどです。
この場所の問題はブラックポイントの住民がプライバシーを望むため、住宅を見ることが難しいことです。例えば4109ブラックポイントロードは国家歴史登録財とされているため、写真がありません。唯一の情報は、チューダーフランスノルマン様式の建物であるようだということです。
一つあるのは4117ブラックポイントロードのジョン&ケイト・ケリー家です。1931年ルイE.デイビスによって設計され、当初は単一の床構造でしたが1939年に2階部分が追加され、職人様式となりました。二階部分は地元でよく知られているアーティストのためのスタジオスペースとして使用しました。彼らの版画、絵画や彫刻は、ハワイ先住民の人々や文化を中心として今日も広く知られています。
ここは秘密の場所ではありますが、その過去から現在までここで信じられないほど素晴らしい建物が建築されたことはまぎれもない事実です。1900年代の前半からの建築物はまさに建物自体にストーリーがあります。当時の最も才能のある建築家によって設計され、夢の館を実現できる裕福な所有者がいたのです。もしこれらの建物が話すことができれば、雄弁にその頃の物語を語ることでしょう。
タンタラス
タンタラスはデイリンハムのような裕福層クラスに、丘の上の場所を与えただけでなく、そこからの素晴らしい景色、そして熱い季節に涼しく過ごせる避暑地として知られることとなりました。
初期の有名な住居の一つは、ジェームズ・ワイルダーホーム(3935ラウンドトップ通り)です。ここは1907年初期のアート&クラフトスタイルの建築です。タンタラスの住宅の歴史そして建築の部分でも、ワイルダー家はハワイの政治とビジネスの世界で最も最前線にいたことがわかります。
ここはハワイの歴史の中枢となりました。ヴァンタッセルの家族がここに住居を構えことがきっかけです。ヌトリッジ と呼ばれる彼らの家は、1925年にハートウッドによって設計された植民地時代のリバイバル風の住宅で、非常に歴史的なデザインでした。この家の周りを囲む22エーカーに及ぶ土地にハワイで最初のマカダミアナッツファームをつくり、これはハワイを代表する飛躍的な成長産業となり、彼らは世界的な名声を得ました。
このコミュニティの建築デザインで最も著名な建物といえば、それは間違いなく1952年に建てられたリジェストランドハウス(3300タンタラス通り)です。ウラジミールオシポフにより建設された、この革新的なモダンなデザインは島の特性を生かしており、多くの賞賛を得ています。その外観だけでなく内装の家具などは素晴らしく、数々の雑誌で紹介されています。今日でもリジェストランドの家族が所有しており、今後、ツアーや研究のために公に公開される計画が進んでいます。
ここには多くの住宅はありませんが、建築だけでなく社会的観点から、ここは特別な場所として存在しています。多くの住宅は道路から見ることができません。これは観察者にとっては残念なことですが、住民たちはプライバシーが守られた中でリラックスして生活することができます。そして古きよき昔のハワイを感じる生活を送ることができるのです。
マキキ&マキキハイツ
マキキの歴史は特性があります。20世紀初期の他のハワイのコミュニティとは異なり、さまざまな階級がここには混合していました。 一般的に西部地域は中・労働者階級が多くをしめ、農園で働く人々が住んでいました。
一方東部地域は主にエリートクラスに魅力があり、裕福な人々の子どもたちが通うプナホウ・スクールを中心に裕福な階級の社会ができました。ただ、そこには様々な層が混合していました。
ここはブルーノ・マースがまだ裕福でない頃育った場所であり、また追放されたフィリピンのマルコス大統領は、追放後に贅沢な快適に住んでいた場所でもあります。マキキは様々な層が混在していました。
例としてはルーズベルト高校の近くにあるアルフレッド・ホッキングハウス(1302ネホアストリート)です。ここは1904年以来オアフ島で最も印象的なアン女王の家でした。石の壁と小塔はホノルル醸造&麦芽カンパニーの社長でマウイ島を代表する上院議員でもある人物の財産でした。彼の作品を見ると醸造事業は良好だったようです。
プナホウ・スクール近くのマキキストリート地域#1619には歴史的住宅が数多くあります。ミルドレッドヨドールホームは、1929にあるチューダーリバイバルハウスで立派な30の窓がついています。 #1921の道路までは1930年代の地中海リバイバルスタイルを象徴したことで知られる、フランドセンレジデンスがあります。
ここ上流階級地区、1955マキキストリートでは1938年からの西洋とアジアの両方の要素を含んだハワイアンバンガローを目にすることができます。ハワイ独特の西洋と東洋の文化が出現した時代です。
マキキハイツは主により裕福なクラスが住んでいました。これは住宅の大きさや建築スタイル、建築家の名前などから知ることができます。
例えば- ヒューG.ピーターセンジュニアレジデンス(2345マキキハイツドライブ)は、1950年のハワイアン住宅でウラジミールオシポフの作品です。さらに同じ通りには、アーバインパリレジデンスがあり、これもハワイアン住宅で1934年に建てられました。非常に良い建築物で特徴があるため、まだ未確認ではあるものの、おそらくCWディッキーの作品であると言われています。
この稀な会社はおそらくリョンチョン・ハウス(2721 コロナへプレイス)で知られているでしょう。ここは、アリゾナ記念館を建築したことで知られるアルフレッドプレイスの非常に希少なハワイの住宅です。
マキキは他の場所のように有名ではありませんが、見るに値する住居がたくさんあります。歴史的な住居を探検するのには絶好の場所です。
カイムキ&カパフル
カイムキのルーツは、中産階級クラスの中国からの移民でした。彼らは1900年のチャイナタウン火災の後、ここに移り住み路面電車の登場によりさらに多くの人々が住むようになりました。
カパフルも同様の道のりをたどりました。路面電車が同じようなクラスをダウンタウンの混雑からの移住、そして通勤も可能にしました。初期はビジネスマン、チャールズ・マーティンによるものでした。彼の中西部農村風の家は、3528キャンベルアベニューにあります。
これらは一例に過ぎません。チャールズはその初期の時代にはカパフルだけでなく、隣人の為にも多くの土地をつくりそして販売しました。
マーティン・レジデンスからそう遠くない場所には、シリル・W.・レモンによって作成された希少な家を見ることができます(917 12アベニュー)。レモンは非常に成功した地元の建築家で、州議会議事堂の画期的な建物を担当するチームの一人でした。
カパフルやカイムキの路上では、多くのプランテーションの家やハワイ風バンガローを見ることができます。これらはここの住む人々の中で最も一般的な住宅でした。
カパフルのイー/トム・コート(3405、3409A、3409B ウェラストリート、3554トルソーストリート)は、4住宅で中庭部分を共有するものの、一つ一つが異なった古典的なハワイアン・バンガロー住宅として有名です。この集合住宅はプランテーションを源とする共同生活のコミュニティです。
これらの住宅では、20世紀中期から後半に多くの偉大なハワイのエンターテイナーが育ちました。ハワイアンミュージックを代表するエマヴェアリー、ソニーカマヘレ、ラニゲレロ、ニーナケアリイヴァハマナ、ジョンピイラニワトキンスなど、他にも多くの人が育った場所として知られています。この小さい住宅から巨大な才能が生まれたのです。
カイムキには1900年初期数十年には素晴らしいバンガローがあり、そのうちのいくつかは歴史上正式に認められいます。しかしここでは、それ以外の珍しい建築物に注目します。
最初にご紹介するのは1305センターストリートにあるアルバート”サニー”クーニャホームです。この大規模な木造住宅は1926年頃建設され、20世紀初期に全米でハパハオレ音楽をつくったアルバート「サニー」の住宅です。ミュージシャンそしてソングライターでもあった彼は、1923年から1924年の間議会でハワイを代表しました。この住宅の壮大な構造は所有者の生活にふさわしいものでした。
さらに多くの著名な名前がレモンヴォンドホルトハウス(3704アヌヘアストリート )にあります。ホルト家はハワイの最後の2君主の側近だけでなく、領土政府に多くの著名なビジネスマンを生み出しました。このステータスを代表するかのように、この住宅の建築は素晴らしくこのエリアでも際立っています。
カイムキで見られる様々なスタイルは、ラム・レジデンス(840 15アベニュー)でも見ることができます。1926年地中海リバイバル風の住宅です。中にはつくりが「控えめ」という評価もありますが、その詳細なつくりと流れるような建築は賞賛に値します。
カイムキとカパフルは共に、多くの労働中産階級の人々の居住地となりました。これらの地区を車で運転してみれば、バラエティに富んだ家々を見ることができるでしょう。それらの家は宝なのです。人々は密接に繋がり意欲的な精神によって結ばれています。歴史の記録にある通り、ここは彼らにとって最適の家であり、そして今でもそれは変わらないのです。
マノア
マノアは、オアフ島で最も認識された歴史的な住居を持っています。谷に足を踏み入れた瞬間に感じられるでしょう。道に並ぶヴィンテージの家たちは、あなたをその昔のオールドハワイへタイムトリップさせるでしょう。マノアは20世紀前半には、トップクラスのハワイ住宅エリアとなり、匹敵するのはカハラだけでした。
その特性は当時の家屋の大きさや仕上がりからも明らかです。クック・ファミリーはここに多数の住宅を持っていたことで知られており、そのうちの4戸は近接しています。チャールズモンタギュージュニアのチューダーリバイバルハウス(1912年)が 2859マノアロードに、同じスタイルで1928年にチャールズ&エディス・クックレジデンスの住居が2869マノアに、1962年のサム&メアリークックの近代的住居(2829マノア)、そしてグレース・クックの職人の家(1912)は2365オアフアベニューにあります。
他にももっと偉大な建築物は、建築家のハートウッド(2512マノアロード)の住宅です。ここには彼の作品に代表されるハワイ独特の多くの特色があります。ある時期ここは、彼の設計事務所でもあり、ここで彼の多くの有名な作品が生まれました。
イーストマノアロードには多くの輸入住宅があります。フローリッドゲート2494、ハワイアンスタイルのアーキテクチャでCWディッキーの後期(1935年)のスタイルです。スタイルは違いますが、同じように素晴らしい建築物2627イーストマノアで見ることができます。
1929年代のファンタジーピクチャースクエアの作品がここにはあり、チューダーリバイバルスタイルのその建物はアールR.とリリアン・マギーレジデンスとして知られています。このユニークな建物はマクギーズ、島で最初の白人アジア国際結婚夫婦によって建てられました。
フェルディナンドアベニューではさらに質の高い建物を見ることができます。見逃すことのできない建物の一つは、2726にあるオーガストクリスチャンスポーラーハウスです。建物の正面はゴシック調リバイバルでさらにコロニアルリバイバルのいくつかの要素も加えられています。素晴らしい外壁も見逃すことはできません。
全体的に20年代と30年代に流行していた、最も一般的なパターンは職人スタイルです。いくつかの例としては、ハッチレジデンス、珍しい3階建てのバンガロー(322フエラニアべニュー)、スイスのシャレー様式建築のストークヨングハウス(2618フェヂナンドアべニュー)でそしてフエラニホーム(3162フエラニアベニュー)、ここには新聞記者でラジオのニュースキャスターでもあるアールウェルティが住んでいました。
ここには数え切れないほどの建物があります。それは地中海風リバイバルスタイルから日本のスタイルまで種類豊かで、このエリアはハワイでもっとも著名な人々が住んでいたことで知られ、住宅はどれも個性的です。
ダイヤモンドヘッド
ダイヤモンドヘッドの歴史的住居の多くはゲートや壁に隠れており、ヴィンテージの住居はダイヤモンドヘッドロードの下に隠れている場合が多いため、あまり目にすることがありません。それでも方法があります。
ゴールドコーストエリアには見事な住宅が立ち並んでおり、それらを目にすることができます。カラカウア通りを歩きちょうどカピオラニ公園を過ぎると、20世紀初期から中期にかけて建てられた、ホノルルの素晴らしい住宅建築を見ることができます。
3022には1926年からの希少なスペイン植民地リバイバルのコテージがあります。振り返って通りの向こうには2階建てのチューダー/フランスノーマン風の建物を見ることができます。それらはヨーロッパの古い村にあるような建物ですが、波の音が聞こえるこの場所に完全に溶け込んでいます。
カラカウアの山側に戻り3026に目を向けると、そこには高い外壁と屋根を持つ1926年代のコロニアルリバイバル調の住居があります。さらに数歩東へ行くと、そこにはおそらくハワイで最高の建築家CWディッキーにより設計されたハワイアンバンガローがあります。2ドア下には1929年に建った、コッツヲルドコテージがあります。これはその時代からまだここオアフに残っている貴重な建築物の一例です。
キエレ、またはココナツアベニューを散策すると、さらに素晴らしい建築物があります。
1920年代のジンジャーブレッドハウスが3件あり、カラカウアよりも丸みを帯びたスタイルでココナツとダイアモンドヘッドロードの隅まで続いています。
これらの建築物は大規模なものではありません。元々の土地は小さくレイアウトされ、大きくはないもののダイヤモンドヘッドの下に位置し、すぐそばに海があるという環境はずっと以前から需要を高く保持しています。
この小さなエリアでは1920年代と1930年代にかけて素晴らしいホノルルの住宅の数々を見ることができました。カピオラニ公園の東側からいくつかのブロックの小さなエリアに並んでいるのです。歴史的住居の宝庫であるこの場所は、必見のエリアです。
ホノルルの素晴らしい歴史
ホノルルのエリアはコンドミニアムや開発地区だけではありません。それらが話題の中心にはなっていますが、実はこの島にはもっと深い歴史や素晴らしい記録があるのです。深く素晴らしい歴史を持つハワイ。この場所はいつまでもその歴史を引き継いで行くことでしょう。