ホノルル不動産ガイド-過去から現在

ホノルルの開発を語るにはまず住宅需要からはお話ししなければなりません。ホノルルでは住宅需要が高く状況は深刻でしたが、それは実に興味深く、複雑な状況でした。

細かい地区の成り立ちまではご紹介できないものの、我々が大きく突き動かされ太平洋のど真ん中に驚くべき場所を創造することとなった大きな変化についてご紹介します。

これは、外から見れば絵葉書にある夢のようなパラダイスが、観光客はもちろん移住者までもが世界中から押し寄せる目まぐるしく動く都市へと変貌していく話です。

驚くべきことに、それは住宅危機軽減とは全く関係なく、ピーティーバーナムの訪問から始まります。

ホノルル最古の不動産開発

ホノルルの文字通り最初の不動産開発と言えば、1899年失敗に終わったパシフィックハイツでしょう。この開発では、わざわざパシフィックハイツまで電気鉄道を敷いて購入を検討する人々に景色を見てもらうという販売促進が大々的に行われました。

パシフィックハイツはチャールズデスキーという男が計画した開発でした。デスキーがこの450エイカーの土地の支払いを渋ったことで開発は途中で完全に停止してしまいました。当のデスキーは法的問題と土地を失い怒ったバイヤーから逃れるため、上海へ逃亡してしまいます。デスキーが不動産譲渡の手続きを怠っていたため、開発構想がとん挫した際にはバイヤーの手元には何も残っていない状態でした。販促に使われた鉄道は閉鎖され、やがて自動車が走り始めます。

この大失敗があったためその先20年は誰もこの開発を再開しようとはしませんでした。1920年代に入ってようやくパシフィックハイツに豪華なホノルルの一軒家が建ち始め多くの有力者達が引っ越してきました。ようやく叶ったデスキーの夢の開発に彼の存在はありませんでした。

ホノルル開発の二大契機

パシフィックハイツは1920年代に具体的に実現した唯一の開発でした。同20年代にはホノルルの姿を大きく変え、更なる発展をもたらす二つの画期的なイノベーションが起こります。

まずひとつ目は、街中の傾斜地にコミュニティ建設を可能にした技術的イノベーションです。以前から富裕層にしか買えないタンタラスのような高台の住宅はありましたが、数が限られていました。

今では、以前手つかずであった傾斜地にセントルイスハイツウィルヘルミナライズのような通りが生まれ家が並んでいます。これらの一軒家は高台から眺めるパノラマビューが人気で、かつては富裕層がその涼しい気候と高台からの見晴らしを満喫していましたが、今では平均的な家族をターゲットにした住宅がほとんどです。

ふたつ目の契機は、1920年代の路面電車の創業です。それ以前は、多くの人がダウンタウン近郊に住むことを余儀なくされていました。自動車もありましたが、この当時はまだ贅沢品で多くの人々には手が届かないものでした。したがって、職場の近くに住むことが必須だったのです。このため生活環境は極めて混雑した状況でした。

安定的な公共交通機関が整備されたことで、多くの人が自動車がなくても通勤が可能になりました。1900年に起きたチャイナタウン大火災により多くの人が移り住み人口増加が見られたカイムキでは新たな住宅と住民の大流入が見られました。

カパフルの急成長も路面電車の登場によるものです。ワイキキ郊外の未開発地だったカパフルは、その西側にある雇用の中心地ワイキキで働く人や中流階級家庭の家で埋め尽くされました。

かつてはアリイが、後には上流階級の人々が静養地としたマノア。この地の人口増加に路面電車の乗り入れが影響していたことはあまり知られていません。涼しく降水量が多い谷間にあるこの地は、富裕層とまではなくともこの地にふさわしい経済的に恵まれた家族向けの住宅地となりました。マノアのビンテージハウスの多くはこのころ建てられたもので、この谷に生まれた住宅地の歴史を示すものです。

路面電車が完成したことで、ダウンタウンから離れた場所に住むことを可能にし、労働者階級からそうでない人まで幅広い人々の住宅購入を可能にしました。新たにお目見えした交通機関が広範囲からダウンタウンに毎朝人々運んで来るようになりました。

同じ頃、自動車の価格が下がり始めたことでより多くの人が車を持てるようになり、ホノルルで高まる住宅需要を充たす新しい家が周辺の土地を埋め尽くしていきました。

ホノルルの急成長

本格的に景気が加速したのは、観光ブームが到来し、当時着実に進歩していた交通手段によりアメリカ本土から遠く離れたハワイに手の届くようになってきていた第二次世界大戦後のことでした。

この時期のホノルルで起きた変化を誇張するには少々無理があります。景気が加速し始めた頃、ホノルルの境界あたりにはまだ存続可能な大きな農場がいくつかありました。ワイキキで最も高い建物はロイヤルハワイアンモアナサーフライダーホテルくらいでいずれもわずか6階建てでした。現在のハワイカイがある場所へ出かけても、ラッキーズタバーンで酒を飲むくらいで他には何もありませんでした。変革は急速に迫っていましたが、すぐに急発進というわけではありませんでした。

1940年代は、若干数の建設があったもののほとんど変化はありませんでした。その理由は戦争です。戦争により相当数の軍人がオアフ島に送り込まれましたが、一般人口の増加は見られませんでした。資材はすべて戦争遂行に充てられ、軍事基地の住宅以外に住宅建設が行われることはほとんどありませんでした。もちろん、その後数十年間はそれまで押さえられていた需要が高まり、それどころか未だ終わらぬ建設ブームがこの時に生まれました。

日本軍の降伏をもってホノルルはようやく日常に戻ります。当初は多くの人がこれからハワイに起きる大きな変化が迫っていることに気づいていませんでしたが、その後、過去に見たこともない大変革がおこります。1950年代、1960年代の劇的な人口増加によりオアフ島の地に新たな街がいくつも生まれていくのです。

人口増加著しいこの20年間は、極めて重要な農地が売却されていった時期と重なります。売却の理由は、採算低下、世代交代、ホノルル不動産史上の好景気時期に多額の売却益を得るためなどさまざまでした。

東ホノルル合併

アイナハイナは、1940年代後半に閉鎖された巨大酪農場の跡地です。農場閉鎖後まもなくオーナーが住宅購入者に土地を売却します。アイナハイナの隣のニウバレーはアレキサンダーアダムス一族が所有、経営する大規模農場でした。アダムスが軍師としてカメハメハ一世に仕えた報酬として1810年に与えられた土地でした。

アダムスの子孫が1950年代まで家族経営の農地として受け継いでいましたが、徐々に利益が生まれなくなっていったため土地を分割して分譲することにしました。この時の分譲地が、現在に見るアイナハイナのコミュニティを形成しました。

この種の開発は、あらかじめ計画、施工される一般的なプロジェクトとは異なり、土地を購入したバイヤーがそれぞれ自身の住宅を計画し施工する形で開発が行われました。農地から住宅地への生まれ変わりは即座に完結しました。近代の発展過程においてこれらの新しいコミュニティをしっかりと確立させたことは、過去100年のホノルル不動産開発の中でも優秀な開発でした。

この頃になるとそれまで海側しか開発されていなかったカハラの街が全体的に完成してきます。第一次世界大戦直後のこの時期は、裕福なハワイ出身者カマアイナがこの地に規模の小さな住宅を建設し始め、次の大戦が終わるころまではとても穏やかな高級住宅地でした。その後、ホノルルでも最も高価な物件が並ぶ現在の姿へと変わっていきました。

1950年代半ばから60年代にかけて、山側の地区に道が敷かれ家が建っていきます。1954年にワイアラエショッピングセンター、現在のカハラモールが開業するとかつてのオールドカハラは完全に姿を消してしまいます。

当時ここに建設された住宅の多くは中流階級向けでした。今日ではカハラという名前は、世界的にも知られる途轍なく高価な土地の代名詞ともなっており、中流階級にはなかなか手の届かない場所となっています。

ハワイカイ-未来予想図

慎重に検討、入念に計画された企画により出現したハワイカイはヘンリーカイザーという男により推し進められました。町に近づくほど生活環境が混雑を増す中で、カイザーはマウナルアベイのそばにある土地に大きなチャンスを見出します。以前はこの地に住み着く人はほとんどおらず、数少ない住人が暮らしていた町ですら1946年の津波により破壊されてしまいました。カイザーにとってこの地は新たな町を建設する白紙のキャンバスだったのです。

カイザーはまず1959年に古代ハワイアンのフィッシュポンドを浚いマリーナを形作ることから始め、今日に見られるようなハワイカイの土地と半島の形が出来上がりました。2年後に工事が完了すると、カイザーは新たに創り出された土地に思い描いていたハワイカイの不動産の建設を始めます。ハワイカイはホノルルのみならずハワイ全土で初めて基本計画に沿って建設された地域でした。

今もなお人目を引くほどのウォーターフロントの一軒家やタウンホームの建設がすぐに始まります。その多くは家のすぐ外に専用ドックがありました。当時のホノルルでは裕福な人だけが所有できるものでした。年月をかけてマリーナから山側へ、そして最終的には尾根まで家で埋まっていきました。開発はすべて計画に沿って行われました。うまく考えられた計画内容のひとつに、谷の奥や斜面に建てられた多層階建てのコンドミニアムがあります。こちらは1階建て、2階建ての住宅とは異なり眺望が確保されています。

さらに、地域全体には公園や緑化エリアがあり、規則により家と家との間隔が広く取られ、都会暮らしの人々にとっては魅力的な地区でした。

ハワイカイはそれまでのものとは全く異なる開発でした。広い敷地と開発に対する志を持ち実現する手段を知るある一人の男の存在により、大規模開発のチャンスとなりました。

町のその他の地区でも1950年代半ばから1970年代にかけて成長が見られます。それ以前は、素晴らしい景色と涼しい気候に恵まれたパリに居を構えることは富裕層とアリイの特権でした。この周辺には、豪邸とそれを取り巻く広大な敷地を有する不動産が広がります。

これらの不動産は分割され、パリハイウェイの両側から広がる丘の高台に新しい地区の開発が始まりました。

ホノルルの西側-一不動産が三地区に

このころ、ホノルルの西側の端でも同様の影響が出ていました。1956年にデーモンエステイトがこの地区の広大な敷地を売却しました。あまりの大きさからソルトレイクモアナルアバレーモアナルアガーデンズの三つの地区が生まれました。

その土地の多くを買収したディベロッパーのクラレンスチンは、土地を直接バイヤーに売り、買ったバイヤーが家を建てるという伝統的な手法を取りました。モアナルアやフォスタービレッジのようなソルトレイクの西部ではその結果が如実に表れています。

ソルトレイク東部の多くの土地は、ソルトレイクブルバードの山側に建つ高層コンドミニアムとなりました。これらのコンドミニアムの住人がこの地区人口のかなりの割合を占めています。今ではよく見かけるホノルルのコンドミニアム地区のひとつです。

ダウンタウン方面に戻ったところにあるローワーパンチボウルでは、以前からあった古い一軒家の間に多くのコンドミニアムが建ち始めます。官公庁街やビジネス街へのアクセスが良いことから人気が高く、勤労者世帯にも手が届く地区でした。

ホノルル不動産の超高層化

20世紀半ばのホノルルには街を部分的に発展させた、または、少なくとも変化の加速に影響を与えたものがあります。この頃には、大きな変化を必要としていた歴史ある地区に開発の手が入ります。

1960年代初頭まではワイキキの町はクヒオアベニューの山側が居住区、海側が観光地という具合に大きく分割されました。残念ながら、山側の端のほうの住宅は築数十年経ち荒廃しており、好ましくない人が集まっていました。

これはただ単に治安維持の問題のみならず、この地区に以前からあり州財政の原動力でもある観光産業に影響を及ぼす経済的な問題に発展しました。問題は成長し続ける住宅需要の高まりと同時期に発生しました。そこで、この地を一掃しコンドミニアムを建設することで問題の解決を見ます。

居住型コンドミニアムの歴史が20年足らずの間でホノルルの景観がいかに変化したかを示しています。ワイキキの「ローカル」地区を構成する建物のほとんどは1960年代から1970年代に建てられました。このコンドミニアムの建設は、かつて一軒家が立ち並んでいたホノルル中心部で高層ビルが多数を占めるようになる先駆けで、その後のホノルルにコンドミニアムが増える兆しとなりました。

ホノルルに景気の波

2000年までの20年間はそれまでのすさまじい勢いに比べてやや落ち着いてきます。しかし、この時期はハワイで起こった日本の投資狂乱の時期でもあり、まだなお巨大プロジェクトが推し進められていました。

日本の投機家がホノルルでの一軒家買い占めに加え時には大きな家を建ててまで更なる利益を求めて投資したため、ハワイ全土で多くのプロジェクトが計画され、金がどんどん流れていました。ところが、それも長くは続きませんでした。

この景気急成長の両面を語る最も悪名高い例にワイキキランドマークがあります。この巨大コンドミニアムは建設が進むについて経費が糸目なくつぎこまれ、支援者はホノルルの不動産価格は高騰し続けると信じていました。ところが、タイミング悪く完工直前に日本のバブルが弾けます。過剰支出とマーケットの崩壊によりマンモスタワーは何年も空室のままとなりました。

日本とハワイの深い経済関係が景気の悪化に多大な影響を与えることになり、不動産業界初の不景気となりました。ホノルルの開発はほぼ休止状態となりました。

今世紀になるまで再度景気が温まることはありませんでした。しかし、回復した景気は熱く動き出します。

カカアコ:危機からのチャンス

ホノルルにおける建設の大波がカカアコ地区に訪れます。かつて活気に満ちていたこの地区は都市計画により20世紀半ばに居住地区から商業地区に変更された後、産業地区に指定されます。ホノルルの大部分の土地が住宅建設のために開拓される一方で、カカアコはコミュニティが立ち退き周りに逆行することになります。

つい最近までのカカアコは、倉庫、自動車修理工場、オフィス、その他関連施設が並び、午後6時以降はゴーストタウンと化していました。一方、住宅危機は深刻なレベルに達し、解決は急務でした。そのような状況での中で、アラモアナとダウンダウンをつなぐこの一等地が秘めた居住地区としての新たな可能性は疑う余地がありませんでした。

カカアコの存在は現代のホノルルの開発において稀にみる新たな不動産用地の出現で、ヘンリーカイザーが一から創り上げたハワイカイ以来の開発でした。市内ではおそらく最後の巨大開発となるでしょう。

カカアコ開発は単なる高層ビル乱立にとどまらず、ホノルルでのコンドミニアムのライフスタイルを再定義するものとなりました。高層ビルの多くはコンクリートに囲まれアフターファイブを楽しむ選択肢はあまりありませんが、ここには公園や開放的な空間、地域全体には芝生が敷かれ歩行者中心の環境が広がる計画です。また、地区全体にショップやレストラン、エンターテイメント楽しめる場所など選択肢は尽きません。

島の地形に合ったホノルルのコンドミニアム

カカアコの住宅は環境保全技術や内装外装ともに革新的な設計が用いられている一方で、島の環境と文化と調和したモダンで最先端の設計になっています。さらに、果てしなく広がるオーシャンビュー、専用インフィニティプールや専用エレベーター、おもてなしの場所としても十分なラナイ、キッチンなどを備えたラグジュアリーコンドミニアムの高みを見ることができます。

ワイエアは釣り網に発想を得たデザインのガラス張りで、そばには完成を間近に控えた非対称に設計されたアナハがあります。開発計画の中でも最初に完成したワイエアは、計画が机上の空論ではなく実現可能であることを証明しました。さらにシリンダーアットゲートウェイタワーのようなコンドミニアムも登場し、今後はカカアコのパズルのピースがひとつひとつはめられてとても特別なものが形成されていくでしょう。

何より素晴らしいことは、地元地域がこの新カカアコ開発に協力的かつ積極的な雰囲気であることです。この230年で混雑が増していくことにうんざりしているはずの都市において、開発に対する前向きな感情があることは素晴らしいことです。

今後の展望

これまでの歴史の中でホノルルが広くそして現在は高く発展しているのは、この愛される町の将来に期待を寄せる何かがあるからです。建設業者がカカアコ開発の取り組み方に注目し、将来の開発に土地への高い意識と住みやすさを取り入れれば、島の人にとって開発は決して悪いことではないかもしれません。ホノルルの住宅の基本的な形状は変わっていても、以前と同じように温かく魅力的で人々に愛される場所であることに変わりはありません。

 

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