ホノルルは現在コンドミニアムが集まる町となっており、今後も永遠に変わらないでしょう。ホノルル不動産は高級で価値が高く、需要も高いため住宅の形態が重要なカギを握ります。今に至るまでにどのような経緯があったのでしょうか?また今後はどのような方向に進むのでしょうか?
その答えは過去70年間という短い期間にありますが、とても静かだった町からモダンで都会的な高層ビルが建つような町になったのは直近の20年間です。ニューヨークの高層ビルが建ったのは、1900年代の初めでしたが、ホノルルは1950年代前までは全くありませんでした。歴史を紐解くことによりどのように今日に至ったことが理解できるでしょう。
歴史を過去から順に理解していくと、故郷と呼ぶ人々や将来的にそう呼べる場所にしたいと思っている人々にとってホノルルの不動産は大きな挑戦が立ちはだかってきたことやとても興奮するような未来を期待できることも知ることができます。
1950~1959年
過去5年間における1950年代に建てられたコンドミニアムの物件売買件数:623
1950年代はハワイ、得にホノルルにとってその後の鍵を握る年代となりました。ホノルルは孤立し、小規模で眠たくなるような街から、肥大化し、新たな居住者が絶え間なく流れ込む町へと変貌しました。更に観光業がブームの時代で、ビジネス機会や職が増え、旅行のオプションもより良くより多くなったことからアクセスの良いホノルルに本土から来る人々が増えたことも影響しました。
忘れられがちの事実ですが、離島に住んでいた人々もホノルルに移り住むようになりました。彼らの島では、機械化とその他要因により農園の労働者の必要性が既になくなり雇用機会が非常に限られていたため、成長を続けるホノルルの経済状況はとても魅力的でした。
これら要因により、ホノルル不動産が初めて上向き、高層のコンドミニアムが建設される運びとなりました。
新しい高層のコンドミニアムは富裕層をターゲットとしていました。この時代にゴールドコーストのコンドミニアムの何棟かが建設され、幸運にもその頃は海の目の前に建てることが可能でした。
カイマナビーチの真上に建てられたコロニーサーフやタヒチアン、トロピックシーズ、ダイヤモンドヘッドアンバサダーがほんの一部の例です。
ダイヤモンドヘッドの他のエリア、カピオラニ公園の道の向かいにあるプアレイサークルにも同様にコンドミニアムが建設されました。ダイヤモンドヘッドサーフやハレプアレイなどのコンドミニアムは、高さは低く幅も狭めで、この地域のコンドミニアムはお手頃な価格帯となっています。
その横のワイキキにおいても住宅建設が始まり、マリーナガーデンやハワイアナガーデンなどの名称の低層アパートがアラモアナ寄りの区域に集まるような形で建設されました。また、カリアやロザレイなどより高めのコンドミニアムがリゾート区域に建設されるようになりました。
何れもハイエンド或いは高級と呼べるような建物ではなく、どちらかと言うと地元の労働者層や中間層のためのコンドミニアムでした。このトレンドは、目覚ましい勢いで観光業が成長しその需要が高まるにつれてワイキキの土地が限られるようになり、続きませんでした。
ダウンタウンに近いエリアもコンドミニアム開発の重要な場所でした。マキキやパンチボール、カリヒ・パラマ地区は、開発業者の興味を惹きました。カパラマ地区のカリヒガーデンやコケアガーデンはこの時代に建てられ、マキキ地区には1510リホリホやマキキ通り沿いのプナホウテラスなど更にコンドミニアムが建設されました。
何点か特筆すべきことがありますが、1点は、空前のコンドミニアムブームの中、1950年代後半において、この地域では一軒家の方がまだ主流だったことです。この頃、既に住宅供給不足の問題はありましたが、60年代以降程ではありませんでした。
その他特筆事項は、50年代までにアロハタワーよりも高い住居用のビルがなかったことです。高層のコンドミニアムはありましたが、まだまだ少なく、60年代以降に建設されたコンドミニアム程の高さはまだありませんでした。
1960~1969年
過去5年間における1960年代に建てられたコンドミニアムの物件売買件数:3,489
1960年代に入ると予想外にも建設ブームは落ち着き、雑誌”Paradise of the Pacific”(現”Honolulu Magazine)のライターは、ホノルルにおけるビルのブームは終わったと1963年に論評しました。しかし、現実は異なりました。
雑誌の論評とは裏腹に、1960年代に入ってからもホノルルのコンドミニアムの建設は続きました。ゴールドコーストには、60年代最初の2年間に、空いているスペースにキャッスルサーフやコーラルストランド、サンスーシーなどが海沿いに建てられました。
プアレイサークルにおいては、新たにダイヤモンドヘッドガーデンやダイヤモンドヘッドテラス、ダイヤモンドヘッドプラザといったビルの建設がトレンドとなり、1965年までに全て完成し、同時に建設するスペースも埋め尽くされました。
因習にとらわれない自由な生活をする人々が住んでいたクヒオ通りよりも山側のマイナスの意味でジャングルと呼ばれていたエリアには、今日私達が知っている人工的に作られたビルのジャングルができ始めました。1950年代には、居住用のビルがワイキキ中心内の端の方に数軒のみ建設されました。1967年以降、住宅用ビル建設ラッシュが一気に始まり立て続けにコンドミニアムが完成しました。
フェアウェイマナーやガバナークレッグホーン、マリーナタワーは、その頃建てられた本の一例です。他のエリアでは、カリア通りにはワイキキのコンドミニアムで唯一ビーチフロントにあるワイキキショア―が建設されました。
この時代、ホノルルの他の2つの地域でも大きな変化が起こっていました。不毛の地であったホノルルの東に位置するハワイカイには、とても有名な低層のタウンハウス型コンドミニアムが建設され始めました。ココアイルやモーリングス、コロニーマリーナ、マリーナパームズが不動産王のヘンリー・カイザー氏により整備されたウォーターフロントに建設されました。
ホノルル中心街では、アラモアナセンターが1959年に創業し、その周辺の開発が押し進みました。現在あるカカアコ地区の先駆けとなったコンドミニアム、1350アラモアナがアラモアナセンターの向かいに誕生しました。
カヘカ区域ではドン・キホーテの周りに高層コンドミニアムが立ち並ぶようになりました。同様に一時期は静まりかえったパンチボール・マキキ地域もカヘカを真似するかのように開発が進みました。
パンチボール地域の隅まで棟が立ち並ぶようになり、60年代の最後にロイヤルビスタが完成しました。ワイルダー通りはその頃、1001ワイルダーや999ワイルダーなどの新しいコンドミニアムで埋め尽くされました。
当時ホノルル中心部で建設がされていない地域はありませんでした。1960年代の後半には、ハワイ州の鳥は、実はクレーンだと冗談が交わされていた程でした。60年代は、1963年にハワイの雑誌の記者が予想していた結果とは程遠いものとなり、建設ラッシュの終わりが見えませんでした。
1970~1979年
過去5年間における1970年代に建てられたコンドミニアムの物件売買件数:6,947
1970年代も60年代に続き、コンドミニアムの建設が続きました。70年代になりようやくフルスピードで建設が進みました。一軒家からコンドミニアムが住居の主流になったのもこの時代です。
ワイキキのアラワイ通りとクヒオ通りの間は一軒家が立ち並ぶ区域でしたが、この時代にほぼ全てがコンドミニアムに打って変わり、これまでのワイキキとは様変わりしました。クヒオ通りから海側の区域が増加し続ける観光客による需要を満たすためにホテルなどが埋め尽くすようになっている中、山側はどの区画にも高層コンドミニアムが立ち並ぶようになりました。
ワイキキ東のカパフル通りから繋がるアラワイ通りの端から西のアラモアナ通り手前の袋小路まで、アラワイ運河のワイキキの反対側から見た風景は、高層コンドミニアムによる万里の長城でした。
クヒオ通りから山側のジャングルが消えただけでなく、ワイキキの西側でもディスカバリーベイやワリナ、ワイプナなどのコンドミニアムの建設がされるようになりました。1965年から1975年の10年間ワイキキは、現在のカカアコや他のある1つの地域に匹敵するような未曽有の変貌を遂げました。
そのあるもう1つの地域というのがハワイカイですが、異なる点はワイキキのように既存の家々を破壊しそこに住んでいた人々の生活に多大な影響を与えた上で再開発されたのに対し、ハワイカイはその必要性がなく開発がすすめられたことでした。
ハワイカイは、残った土地を埋め尽くすように開発が進みました。クアパアイルやカイマラマリーナ、ゲイトウェイペニンシュラ、これら全て70年代半ばまでに最初の住人が住むようになりました。1階或いは2階建てのタウンホーム形式の住宅以外にも、マウナルアンやナニワガーデンのようなビル型のコンドミニアムが初めてトレンドのように建設されました。
他にもホノルルのソルトレーク地域も独自の都市化が進みました。各通りには、高層コンドミニアムが立ち並ぶように建設されました。1975年に終焉したベトナム戦争の時代だったため、アメリカ軍の拠点地の1つであるハワイには軍による住宅需要が地元の人々からの需要と共に増え、軍のベースと高速道路から近いこの地域に小規模の住宅都市が開発されたのでした。
コンドミニアム暮らしという選択肢が、この70年代にホノルルの各地域に浸透しました。特にマキキとカリヒは目覚ましく、ヌアヌ地域にもコンドミニアムが建設されるようになりました。
ホノルルの発展の上で最も重要な20年
1960年から1980年までの数十年間、ホノルルは目覚ましい変貌を遂げました。この間に現在あるホノルルのコンドミニアム物件の半数ほどが供給されました。この割合は、今後カカアコの開発が進むにつれて下がるでしょうが、この20年は今後もかなりの割合を占めることは間違いありません。
この20年間の内、特に後半の10年がホノルル変貌を遂げる大きなカギと握りました。70年代において開発業者は毎年12,000戸の物件をハワイに新たに供給しましたが、その大半がオアフ島のコンドミニアムによるものでした。この70年代がかつてない勢いで開発が進んだ時代で、以降もそその時代の記録を破ったことはありません。
1980~1989年
過去5年間における1980年代に建てられたコンドミニアムの物件売買件数:866
1980年代にようやくコンドミニアムの建築ブームが落ち着きました。理由の1つは、限られた土地によるものでした。
他の要因としては、住宅需要不足にもかかわらず、一部の地元住民はコンドミニアムの開発に反対し、これらの地区から立ち去りました。このような時期にノースショアやカイルア地域にコンドミニアムの建設がされないよう住民の努力が施されました。
一例としては、カイザーという開発会社がホノルル市郡からサンディービーチにコンドミニアム建設の許可を得たにもかかわらず、直後に長期にわたる草の根レベルの戦いにより住民投票による再決定に持ち込み建設を阻止することに成功しました。
ホノルルにおける開発はかなり落ち着きましたが、完全に終わることはありませんでした。ワイキキはこの時代も群を抜いて建設が進み、リリウオカラニガーデンがその中でも際立ったコンドミニアムでした。70年代以降も、残り少ない空き地や開発可能な区画にコンドミニアムが建設されました。
昔ジャングルと言われていたワイキキの一帯やホブロン区域などに残された建設可能な区画に、新たにワイキキのコンドミニアムが建設され、ワイキキの開発がほぼ完了に近づきました。
同時代、ソルトレイクはかなりのスピードで成長を続け、ソルトレイク通りの山側のリキニ通りとアラリマ通りまで開発が進みました。フランクリンタワーやホライズンビュータワー、プラザランドマークといった名前のコンドミニアムが80年代に売買され始めました。
時は進み、クレーンの数が減る中、一地域のみ新しいコンドミニアムが増え続けました。マキキ・パンチボール地区に、パンチボールパームズやピイコイアトリウム、1015ワイルダーをはじめとしたコンドミニアムの数がコレクションを集めるかのように増えました。ダウンタウンに近く、交通量が多いエリアから離れていることもあり、コンドミニアムの買主からの人気も上がりました。高い階からはオーシャンビューが見える物件もあります。
その間、まるでハワイカイのマリーナの大きさを証明するかのように、20年をかけてハワイカイのウォーターフロントのタウンハウスの建設が進みました。また、16階建てのコモド―誕生により住宅の供給もさらに増えましたが、場所はマリーナから少し離れた尾根当たりでした。
80年代の終わりは、それ以前の20年間ほどではありませんが、日本人投資家による熱気を帯びた不動産購入や投資がされたかなり変化があった時代でした。ハワイ経済と日本経済とがまるで手を結んでいるかのように強い影響がありました。
1980年代は、以前程の大規模なレベルの住宅開発がもう不可能だということがわかりました。新たに建設するための土地がなくなってきました。また、官庁職員がその時の状況を減速するようプレッシャーを受けていたこともあり、法や規定を破るような建設は許可されませんでした。これよりも重大な問題は、90年代に起こります。
1990~1999年
過去5年間における1990年代に建てられたコンドミニアムの物件売買件数:477
1989年12月、日経平均株価はピークに達しました。その頃の日本はバブルの絶頂で有頂天の状態でしたが、翌年には日本のバブル経済が破綻し、景気が急速に後退しました。
この衝撃はハワイ経済にも多大な影響を齎し、1992年のUS News & World Reportの調査によるとハワイはアメリカ国内で51番目、つまり他の全50州とアメリカ領土・地域よりも低迷した経済状況となりました。このような無力な状況により、新たなコンドミニアムの建設は急遽中断されました。
但しオアフ島の中でも農園が元々あった西の方では、建設の為の土地が利用可能となり開発が進みました。一部の地元住民の間では反対がありましたが、政府は積極的に売り込みました。
一方、ホノルルでは全ての地域が静まったわけではなく、カカアコでは1990年にナウルタワーが、1999年にハワイキが建設されるなどコンドミニアムの建設は進みました。とてもモダンで高級感満載、且つ、オーシャンビューも大きな窓から堪能できるこれら2つのコンドミニアムは、今日のカカアコの事実上の青写真となりました。
資金調達を確保した他のプロジェクトも開発が順調に進みました。一番良い例は、ハワイカイのプロジェクトです。カレレカイやラレアアットハワイカイは、難しい時代の中、予定通り完成しました。
日本のバブルが弾けて一番打撃を受けたのは、バブル時代に一番適した投資先であったワイキキです。バブルが膨らみ続ける中、ある日本の投資家グループはワイキキランドマークの建設を始めましたが、バブル崩壊により完成直前にこのコンドミニアムを手放すことになりました。このコンドミニアムは何年かの間空っぽのまま置き去りにされました。
90年代はホノルルにコンドミニアムを建設する上で困難をきたした10年でした。多くが困難を乗り超えられませんでしたが、乗り越えたプロジェクトは次の回復時以降に見返りがありました。この低迷時代はとても長く難局でした。しかし、1999年には、幸運にも好転しはじめ、確固たる土台がようやく見えてきました。
2000~2009年
過去5年間における2000年代に建てられたコンドミニアムの物件売買件数:861
ミレニアム世代により、ホノルルのコンドミニアム市場に明瞭な変化を齎し、以前のような活気が戻ってきました。エバビーチでは手に入れやすい価格帯の物件が供給されるようになり、ホノルルでは高級な住居を求める層をターゲットとしたレベルの高いコンドミニアムの供給がフォーカスされるようになりました。
一時期休止状態だったワイキキも同様です。21世紀最初の10年に入り、充実したアメニティーがそろい、特性がありサービスレベルも高いコンドミニアムがワイキキにも建設されるようになりました。
アルーアやウォーターマーク、トランプタワー、これらは全てフロントデスクにてサービスが提供され、内装や外装に彫刻が施されていたり、いくつかの部屋からは素晴らしいオーシャンビューが見えるような高級コンドミニアムです。このレベルのコンドミニアの購入資金を準備できる買主は、彼らの投資額に見合った見返りを期待しており、開発業者も彼らの期待に喜んで応えました。
カカアコには、このようなレベルのコンドミニアムは既に数棟ありました。確保可能な土地がワイキキよりも広いため、テニスコートや広いプール、広大なレクリエーションデッキを構えることができました。ホクアやコオラニは現在開発が進むカカアコプロジェクトよりも前に建設されましたが、今の環境に馴染むような形で完成しました。
カカアコの再開発が進み始めた中、ハワイカイのプロジェクトは完成に近づきました。2009年が終わるまでに少なくとも5つのコミュニティーに新たに住民が住み始めました。そしてプロジェクトはようやく完了し、ホノルルの他の地域の先人と同様、そこに住む住民はそれ以上を受け入れようとしませんでした。
2010~2017年以降
現在、ホノルルの不動産において中心となっている地域が1つあります。それは、2012年2月から再開発プロジェクトがスタートしたカカアコの計画的住宅街で、完成まではまだ何年もかかることもあり、その地位はかなりの間続くでしょう。
開発会社のハワードヒューズとビショップエステートは、ハワイの伝統と環境を守りつつきわめてモダンな住宅街を目指していることを表明しています。都会的で歩行者に優しく、緑も多く、公園やコミュニティー空間のある地域に変貌し、高級感ある、或いはそれ以上の暮らしができる物件がより多く提供されるでしょう。
既に完成済みのハワイ語で「命の水」を意味するワイエアは、空中に放たれた投網をモチーフにした、巨大なガラスの立体彫刻のような創造的な外観が特徴的です。内部にはアメニティーの一部として、コンシェルジュサービスやケータリング対応のダイニングルーム、素晴らしい装飾、どの芸術品にも勝るオーシャンビューもあり正に最高級コンドミニアムの代表です。2017年に完成したアナハは、ワイエアから斜め迎えに建てられたジェンガのような建物です。これらコンドミニアムは、今後カカアコには住民たちの為に美しい建築物を競うかのように建設されようとしていることを示唆しています。
他のプランとしては、ゲートウェイタワーの建設も予定されており、完成するとハワイのみならず世界中のどこと比較してもこれまでにはないユニークな場所となるでしょう。
ハワードヒューズによる再開発以外にもカカアコでは高層コンドミニアムの建設が進んでいます。カピオラニ通りにはシンフォニーが建設され、更にはアラモアナセンターに隣接するワンアラモアナやパークレーンも完成しました。
スペースが限られたワイキキにも、バレーパーキングサービスを活用して車を停めそのままエレベーターで快適な家に帰ることが可能なリッツカールトンが建設されました。その他にもキングスビレッジと元京屋レストランの敷地にもホテルコンドの建設が予定されています。もちろん、ハイエンドなマーケットをターゲットとしています。
ホノルルのコンドミニアムの方向性
カカアコには中間層をターゲットとした手頃な価格帯のコンドミニアムも建設せれる予定です。ホノルル市の未来の為にも乗り出した船は後へは引かれません。今後、より多くの高所得者層向けの建物がホノルルのコンドミニアムの中心となるでしょう。この層からの需要があるということもありますが、ハワイにおける建設費と土地の費用が高く、健全な利益を得ることができるようこういった価格帯をターゲットにするのは必然的です。
100万ドル以上のユニットのコンドミアムばかりが建設される訳ではありません。しかし、20世紀のようにアメニティーが限られたシンプルな高層コンドミニアムのブームはもうホノルルでは終わりました。勿論こういったコンドミニアムも残りますが、より質の高いコンドミニアム建設の方向性にあることは確かでしょう。